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最近読んだ、『人格障害論の虚像』という本の中で精神科医である筆者が述べていた言葉。そのなかの一部をここに引用させていただきます。
「(中略)私は、輸入された境界性人格障害概念から、少しずつ訣別しようと思いはじめました。(中略)社会や共同体は、個人に対し、「治療」か排除かの二者択一を、ひたすら迫るようになっていったのです。(中略)「自分探し」をする人たちを同一性障害と名づけ、良くてもモラトリアム、悪くすると境界性人格障害という名の人格障害だと規定してしまいます。(中略)だから、「自分探し」の封殺を恐れる必要はまったくない。もっと恐れるべきものは他にあるのです。」
私は長い間、このサイトを運営していて、「境界性人格障害」というレッテルを貼られることを恐れたり、嫌がったりする人をたくさん見てきました。一方で、「人格障害だったのだとわかってほっとした、安心した」という人たちも少なからずいらっしゃいました。
個人的にはとても共感した反面、こうした安心感をたとえ一時的にでも持てることをこの本の著者はどう考えるのだろうかと、少し考えさせられましたが、いずれにせよ軽々しく人格障害の診断を下し、また告知することには私も反対です。ただ、「自分探し」の途上で、容赦なく降り注ぐ雨風をよける隠れ蓑や雨傘のように「病気」をいわば「わかって利用する」ことも、ときには必要なのではないかと感じました。
ただし、最後に急いで付け加えると、この隠れ蓑や雨傘も、一時的な緊急避難場所としてはプラスに働くことはあっても、「よくなろうと自分で努力する」ことなしに、あまりに長い間そこに甘んじてあぐらをかいていると、抜け出したくても抜けだせない硬い殻のように自分にこびりついてしまう恐れがあります。「病気だから許される」「人格障害だから何しても構わない」「自分だけが特別な存在だ」というある種の依存状態が生じてしまいかねません。それを常に意識して、状態がよくなってきたら少しずつ身にまとってきた隠れ蓑や雨傘を脱ぎ捨てていく勇気も持てるようになりたいものです。
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